2019929日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』でかつてロッテオリオンズでプレーしたレロン・リーが日本時代の思い出を語っています。

 

かつて球場で模型の飛行機を飛ばす大きな男がいた。40年経った今もその趣味に夢中。

 

 

 

レロン 日本の皆さん、私の作業所へようこそ。今も模型飛行機を作って楽しんでいます。今日は来てくれてありがとう。

 

元ロッテオリオンズのレロン・リーさん。1977年から1987年、11シーズンに渡ってロッテでプレー。打率は10年連続で3割以上をマーク。長打力のあるアベレージヒッターとして1年目から4番を任されました。11年間の通算打率は驚異の.320(4000打席以上で歴代2位)。

 

そして来日2年目には弟のレオンが加わる。史上最強の兄弟助っ人が誕生した。

 

 

来日前は8年間(1969~1976年)メジャーリーグでプレー。パドレス時代の1972年には打率3割をマークしている。

 

 

―なぜ日本に来ることになったのか?

レロン 当時、私は選手会の代表としてストライキに関わっていました。球団はそういった行動を嫌うので結果的に解雇となったんです。新しいチームでプレーしようと考えていた時にロッテでコーチをしていたラフィーバーから日本でやらないかと誘われたんです。彼が日本なら毎日プレーできると言うので日本行きを決めました。

 

来日した1977年の春季キャンプで衝撃を受けたと言います。

 

―衝撃的な出来事とは

レロン 監督の金田(正一)さんはとにかくランニングをさせる人でした。寒くてもおかまいなし。練習練習の毎日で時に反発した時もありましたよ。でも、金田監督に出会って「人はその気になれば能力以上の力を出せる」という事を知りました。おかげでシーズンが開幕する頃には体が仕上がっていましたよ。

 

日本流の練習を受け入れたことで1年目から大活躍。ホームランと打点の二冠王を獲得しました。その活躍からたちまち子供たちのヒーローに。当時の人気を物語るものが残っている。

 

レロン これは弟と一緒に東京で歌手デビューしたレコード。『ベースボール・ブギ』です。歌詞は弟が書いたんですよ。

 

 

 

野球に夢中だった少年時代を歌った曲だ。

 

 

日本で名声を得たレロンさん。成功の陰にはある人の存在がありました。

 

―日本での恩人

レロン コーチの醍醐(猛夫)さんです。1年目から毎日バッティングピッチャーを務めてくれました。コントロールか良く完璧でした。私が11年間で通算32分も打てたのは彼のおかげです。本当に感謝しています。

 

―それでも打てないピッチャーがいた

レロン 近鉄の鈴木啓示さん(通算317)です。彼のスライダーは凄かった。メジャーでも通用するピッチャーでしたね。鈴木さんが登板した時は「フォアボールを出してくれ」と願っていましたよ。それと西武の永射()さん。サイドバンドからのカーブは打てる気がしませんでした。どうせ打てないならと思って、一度右打席に立ったんです。そうしたら偶然ヒットを打てました() 野球は何が起こるか分かりませんね()

 

 

現在は生まれ故郷のカルフォルニアに暮らすレロンさん。日本を離れた後はアスレチックスの打撃コーチに就任。1989年にはワールドシリーズ制覇も成し遂げた。

 

レオン これがワールドシリーズのチャンピオンリングです。

 

 

レオン あの時、日本で学んだ事をアメリカでも生かしました。練習量も日本のように増やしたんですが、ランニングは不評でしたね。でも、私に指示通りに練習した選手はメジャーで成功しましたよ。どんなスーパースターも翌日の試合に備えて陰では夜中に練習し、必死に努力しているものなんです。そういう事を日本で学んだんです。

 

今年(2019年)で71歳。今一番の楽しみは子供の頃から趣味にしている模型飛行機。

 

 

レロン うまく飛ばせた時はホームランを打った時と同じような爽快な気分になるんです。

 

―日本時代も模型飛行機を趣味にしていた

レロン 日本では試合が終わると部屋に籠り何時間も飛行機を組み立てていました。野球漬けの毎日でしたが、いい気分転換になったんです。この趣味があったからこそ野球に打ち込むことができたんです。最高ですよ()

 

今でも模型飛行機をこよなく愛するレロンさん。最後に日本のファンへメッセージ。

 

―日本のファンへ

レロン ファンの皆さん、日本でのプレーは本当に楽しかった。今でもいつもプロ野球時代の話をしています。素晴らしい時間をありがとう。

 

 

以上です。

最後は満面の笑みでメッセージを語っていました。
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