2020年11月1日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』でかつてヤクルトスワローズでプレーしていたドゥエイン・ホージーが日本時代の思い出を語っています。

 

?? 僕はホージーです。

 

 

ホージー 私が元祖ホージーです。これは日本で付けていた背番号10。

 

 

ホージー この子は私の息子のブレイデンです。1997年 ヤクルトで日本一になって、最多本塁打のタイトルも獲りました。

 

ドゥエイン・ホージー
1997年、スイッチヒッターで史上2人目となる最多本塁打を獲得。入団1年目にしてヤクルトの日本一に貢献した。その実力と明るいキャラクターでファンに愛された助っ人。

 

帰国後、マイナーリーグでコーチを務め、現在はアメリカ中西部のネブラスカ州のオマハで野球アカデミーを経営。日本でプレーするキッカケはメジャーで掴もうとしていた矢先だった。

 

―来日の経緯

ホージー 私がマイナーリーグでMVPを獲った1994年、メジャーリーグはストライキでプレーできなかった。日本からの誘いもあったけど、メジャーの夢を捨て切れずに断ったんだ。すると1995年にレッドソックスでメジャーデビューできた。

 

レッドソックス時代のホージー
1995年~1996年
52試合 打率.274 本塁打4

 

ホージー 1年目はいい成績だったけど、翌年は伸びなくてね。そんな時にまた日本から声がかかったんだ。さすがに2回も断ったらバチが当たると思って日本行きを決めたよ。でも最初のキャンプは苦労したねぇ。

 

 

当時のヤクルトの監督は野村克也さんだった。チームに大砲を求めていた野村監督は178センチと小柄なホージーを見て「ただ明るいだけの選手」とボヤいたそうな。

 

―ノムさんの言葉も気にしない

ホージー 監督は私のことを全く評価していなかったけど、気にしなかったよ。好き嫌いはその人次第だからね。こう見えて私はパワーヒッターなんだ。それを証明するには結果を残すしかなかったんだよ。

 

開幕すると前評判を覆す活躍を見せる。最初は7番だった打順も後に中軸に上がり、ホームランを量産。その気さくな人柄で一躍人気者になった。

 

ホージー あの頃、街を歩いていると私に気付いたファンが写真を撮らせてほしいと近付いてくるんだよ。「シャシン シャシン」と言われて一緒にプリクラを撮ったんだ。みんなが僕にそれをくれるから、ヘルメットに貼ることにしたんだよ。日本にはそこら中にプリクラがあったからすぐにいっぱいになったねぇ。

 

 

 

開幕から首位を走るヤクルトと共にホージーも絶好調。シーズンの終盤にはジャイアンツの松井とホームランのタイトル争いを繰り広げる。そしてジャイアンツとの最終戦では先発の石井一久がホージーに1本差に迫る松井を抑え、ホームランのタイトルを獲得。結果を出すことで信頼を勝ち取ったホージー。

 

住まいには今も日本での思い出の品が飾られている。

 

ホージー これは横浜を相手に石井がノーヒットノーランを達成した時の新聞。(※1997年9月2日)

 

 

ホージー シーズン終盤の首位攻防戦の初戦だったから、とても大事な試合だったんだ。マウンドに駆け寄って石井を担いだ時に聞こえた彼の笑い声は忘れられないね(笑) ところで石井は何をしてるんだ?

 

楽天のGMをしていると伝えると・・・(※この放送時にはまだ監督になっていません)

 

ホージー GMだって!?僕を打撃コーチに呼んでくれよ(笑)

 

 

そして一番の思い出は西武との日本シリーズ。第2戦、ヤクルトが1点ビハインドの6回表、1アウト満塁で3番ホージーに打席が回る。

 

ホージー 普通じゃ考えられないクレージーなプレーが起こったんだ。

 

 

このプレーで同点となる。

 

ホージー あの時は振りにいっていないんだ。ピッチャー杉山の変化球が曲がり過ぎて、それを避けようと仰け反ったら、グリップエンドにボールが当たって、それがちょうどいいところに転がったんだよ。3塁ランナーの宮本は好走塁だったね。みんな「何が起こったんだ?」って呆気に取られていたよ。もう一度やれと言われても二度とできないね(笑) この試合を落としたけど、日本シリーズで優勝できたのは最高だった。シーズン前「あの助っ人では勝てない」と言われていたから、見返してやった気分だったね。何よりもホームのファンの前で優勝を決めることができて本当に幸せだったよ。日本での経験は今でも大切な思い出さ。

 

 

今は子供たちに野球を指導するホージーさん。そこでは日本の経験が生きている。

 

ホージー 私は日本をはじめ、多くの国でプレーしてきた。だから様々なプレースタイルを教えられる。例えば日本はバットを立てて構える選手が多いけど、アメリカは寝かせる選手が多い。その中からその子にあったフォームを教えるんだ。

 

そしてもうひとつ、日本で成功の秘訣となったことを子供たちに教えている。

 

ホージー 日本では対戦したピッチャーの特徴をノートに付けて研究していたんだ。子供たちにもノートを付けるように言っているよ。やれることを全てやる。そうすれば自ずと結果はついてくるってね。

 

豪快なホームランと持ち前の明るさで日本をはくしたホージーさん。最後に日本のファンへメッセージ。

 

ホージー まずは健康第一。そして素晴らしい野球を愛し続けてほしい。新型コロナウイルスで世界が変わってしまったけど、きっと乗り越えられます。そのためには自分の役割を果たし他人を思いやりを持ってください。きっとまた会えます。また会える日まで。

 

最後にアイーンポーズ

 

 

以上です。

相変わらず明るい雰囲気のホージーでした。
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