2020年11月15日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』でかつて阪神タイガースとヤクルトスワローズでプレーしていたトーマス・オマリーが日本時代の思い出を語っています。
オマリー はい。私はオマリーです。1991年92年93年94年阪神、95年96年ヤクルト。今は六甲山、あっ、違う、今ペンシルベニアです。(※全部日本語。背景が山だったので六甲山じゃなくてペンシルベニアの山だったというジョーク)
―日本移籍の経緯
オマリー 1990年、メジャーでプレーする私に阪神から誘いがあったんだ。これは後から知ったんだけど、その2年も前から阪神は私にオファーしてくれていたんだ。その頃の私はメッツであまりパッとせず、このままメッツに残るか、もっと試合に出られるチームに移籍するか悩んでいたんだ。それでシーズン終了後に思い切って阪神に電話したんだよ。あれは人生で最高の決断だったね。
―日米の違いで戸惑ったところ
オマリー アメリカの野球は速球が中心で球も速い。日本のピッチャーはフォークやカーブ、スライダーなどの変化球が多くて、その全てでストライクが取れるんだ。それを打ち返すのが大変だったよ。
―バットの使い分け
オマリー 相手投手が右投げのときは重いバット、左投げのときは軽いバットを使っていたんだ。右投手用のバットは910~920グラムで左投手用のバットは900グラム。左右の差は10から20グラムだったと思う。左投手は外に逃げて行く変化球を投げるので、バットが軽い方がボールをギリギリまで引き付けてライトへ引っ張ることができたんだよ。科学的根拠はないけど、それでいい結果を残せていたんだ。
オマリー 最初はバットの振り方を英語で解説して、それを日本語に翻訳したものを収録する予定だった。何故かそこから話が広がって、私が日本語で『六甲おろし』を歌うことになったんだ。この話が来た時は日本語もほとんど分からない状態だったし、私は音痴だから本当に大変だったよ。でも自分なりに一生懸命頑張ったし、CDもかなり売れたみたいだから、今となってはいい思い出だねぇ。
―日本シリーズの思い出
オマリー 当時のヤクルトにはスゴい選手はたくさんいたけど、私の加入でチームの足りないピースがちょうど埋まったような感じだった。私もアメリカでキャリアをスタートさせて、日本で更に経験を積み、選手として一番のピークを迎えていた。プレッシャーを楽しむ余裕もあったし、あの時は本当に調子が良かったよ。
―『小林 オマリーの14球』について
オマリー お互いに全て持っている力を出し切った勝負だったよ。日本シリーズは優勝でしたけど、あそこで三振してしまったのは今でも少し悔やまれるね(笑)
オマリー 自分は若い頃、もっと色んなことを教えてほしかったという思いがあるから、自分の経験を伝えたいと思っているんだ。私の教えた選手がドンドン上達していく、その過程を見られるのが嬉しいし、コーチとして一番のやりがいを感じるところだよ。
―日本の経験を生かした指導
オマリー 時間に余裕を持って行動するんだ。早く来るのが当たり前。時間通りに来るようじゃ遅刻。遅刻するくらいなら来ない方がマシってね。若い頃から良い習慣を身に付ければ、後々に人生の助けにもなるからね。
―日本のファンへメッセージ
オマリー 野球は私の全てだ。子供の頃はバスケットボールやフットボールもやっていたが、野球が一番合っていた。野球のおかげで日本にも行けたし、色んな経験もさせてもらった。だから今後は私の伝えられることをできるだけ多く伝えたいと思っているよ。日本のファン、特に阪神ファンの幸運を祈っているよ。『阪神タイガースファンは一番やぁ!』『ヤクルトファンは応援くださーい!』。
以上です。