2021年6月12日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』でかつて中日ドラゴンズでプレーしていたケン・モッカが日本時代の思い出を語っています。
モッカ ヒサシブリ。ワタシハケン・モッカデス。中日ドラゴンズで1982年から1985年までプレーしました。1982年にはリーグ優勝しました。(※最初の挨拶は日本語)
―日本でプレーする経緯
モッカ 1981年のシーズン終了後、どこからも声が掛からなかった私に中日でプレーしたジム・マーシャルさんから電話があったんです。
モッカ 当時、中日のコーチだった彼から「日本でプレーしてみないか?」って。私は「いいですよ」と即答しました。メジャーではあまり試合に出られなかったけど、日本に行けば活躍できると思ったんです。打撃には自信があったからね。
―日本の野球への戸惑い
モッカ 最初の1ヵ月間は体力作りだけ。1日中練習するのには驚きました。でも『チームの一員になるんだ』と言い聞かせ、自分から率先して練習に参加したのを覚えています。みんなと同じ小さなホテルに泊まって寝食を共にしました。『郷に入っては郷に従え』と言うんでしょ。
―ノックの内容
モッカ 『サムライノック』と呼ばれた練習は過酷でした。バケツ一杯のボールが空になるまでノックするんです。おかげで苦手な守備が上達しましたよ。
―活躍できた要因は?
モッカ 飯田コーチのおかげだよ。流し打ちだけでなく、引っ張ればもっと長打が出ると指導してくれたんです。いつも練習に付き合ってくれたし、今でも感謝していますよ。
―不振の原因とチームメイととの別れ
モッカ 35歳にもなっていたし、怪我で練習もできない状態でした。それで最後の巨人戦の前日にチームメイトにプレゼントをする事にしたんです。ファーストの谷沢には私の悪送球を掬(すく)えるように網を。傷が絶えなかったキャッチャーの中尾には救急箱を。ピッチャーの牛島は時々遅刻していたので、目覚まし時計をプレゼントしました。チームの一員として受け入れてくれた事への感謝の気持ちを伝えたかったんです。
―引退セレモニーについて
モッカ あれは忘れられない思い出です。最後の試合でエラーもしましたけど、みんなと一つになれました。胴上げもしてくれて、本当に素晴らしい瞬間でした。恐らくアメリカにいたら、あまり試合に出場出来ずに虚しい選手生活になっていたでしょう。でも、日本ではキャリア最高の成績を残す事ができました。日本でプレーできて、本当に幸せでしたよ。
―イチローとのエピソード
モッカ イチローは愛知県出身だから私のプレーを見ていたらしいよ。オールスターではアメリカンリーグで一緒だったけど、何も教える事はなかったよ。イチロー自身がコーチみたいな選手だからね。
―日本で覚えた練習
モッカ 実はトスバッティングは日本独自の練習方法なんです。ボールの捌き方を身に付けられるようになって、私のバッティングもレベルアップしました。今は私が学生相手にトスをしています。選手たちからも成長が実感できると好評ですよ。この学校の選手たちはプロになるわけではないので、そうした達成感を得る体験が大切なんです。ここでの生活が私の日本での経験と同じくらい素晴らしいものであってほしいと願ってますよ。卒業した後、社会に貢献している姿をていると私も嬉しい気持ちになりますね。
―モッカさんにとって野球とは
モッカ 野球は全てです。日本で充実した選手生活を送る事ができたし、素晴らしい家族も持つ事ができました。人生を野球に捧げて、全てを手に入れる事ができたのです。
―最後に日本のファンへメッセージ
モッカ 日本での思い出は今も鮮明に覚えています。最高でした。このインタビューで私の事を思い出してください。人生で特別な4年間であり、家族も最高の時間を過ごしました。あの4年があったから、今の私があるんです。
以上です。