2020年11月8日にBS1で放送された『ワースポ×MLB』でかつて横浜ベイスターズでプレーしていたグレン・ブラッグスが日本時代の思い出を語っています。
ブラッグス ハロー、ブラッグスだよ。
ブラッグス 1993年から96年までベイスターズで中軸を打っていたんだ。今でもこの通りムキムキさ。
―来日の理由とは
ブラッグス あれは1992年、シーズン終盤のブレーブス戦。ホームランを打って、一歩足を踏み出した瞬間だった。膝から『パン』って音がしたんだ。足を引きずりながらダイヤモンドを1周したけど、あれがメジャーで最後の打席になってしまったよ。その年のオフはどのチームも僕の怪我の回復具合を気にして契約してくれなかった。そんな時に横浜から誘いがあって日本に行くことを決めたんだ。
ブラッグス 怪我もあって不安だったけど、話を聞いたときは本当に嬉しかったよ。
―日本野球に当初苦しむ
ブラッグス 最初は苦労したよ。日本のピッチャーはタイミングを合わせるのが大変なんだ。投げる度に焦らしてくる投手もいれば、急にクイックにしたり、逆にゆっくり投げてくる人もいたからね。
―牛込さんについて
ブラッグス 牛込さんはもう亡くなってしまったけど、彼がティーバッティングのトスを上げてくれたり、自らバッティングピッチャーも買って出てくれたんだ。だから僕は打てるようになるまでひたすらスイングを繰り返した。時には1軍のピッチャーに投げてもらったよ。やり過ぎだってみんなに止められたこともあったけど、とにかく彼の期待に応えたかったんだ。
ブラッグス 牛込さんには本当に励まされたよ。最初は僕を連れて来たのは失敗だったと思ったかもしれない。でも、彼のおかげで僕も実力を証明できた。今でも感謝しているよ。
―印象に残る強打者
ブラッグス 僕はいつも強打者のバッティングを研究し、自分にできることを取り入れていたんだ。でも、大豊のフォームだけは真似できなかったよ。彼はあの一本足打法でレフトでもセンターでもライトでも、どの方向でもホームランを打つことができた。そんな凄い選手と争っていたんだから、タイトルを獲れなくても悔いはないよ。
―中日戦に燃えていた理由
ブラッグス 中日とはひと悶着あったからね(笑) 絶対にその話になると思ったよ(笑)
―乱闘を振り返る
ブラッグス 本当のところは分からないけど、中日には前の日にも当てられて、わざと当てられたんじゃないかと思っていたんだ。そんな時にまた当てられたもんだから、あんなことをしてしまった。津野は帽子を取って謝っていたけど、怒りを抑えられなかったねぇ。更に次の年は与田の剛速球が僕の顔の近くに来て、手に当たったんだ。そのデッドボールの直後、彼を睨み付けたんだけど、与田は帽子を取ろうとしなかった。それでますます「わざと狙ったな・・・」と思ってしまったんだ。
ブラッグス でも、今だから言うけど与田の堂々としている姿を見て、闘志溢れる強い男だなって感心したんだ。彼は彼で不屈の精神を貫いていたんだ。
―彼は現在、中日の監督をしています
ブラッグス えっ、そうなの?(笑) 正直な気持ち、いつか日本に行って、与田とは握手をしたいと思っているよ。
ブラッグス これはベイスターズのユニフォーム。カッコいいだろう。44番はハンク・アーロンの44番さ。
―アーロンと同じだから44番を選んだ?
ブラッグス そうだね。そういう選手は多いよ。この番号は誰でも付けられるわけじゃなく、みんなの憧れなんだ。
ドノバン ボクノナマエハドノバンデス。ヨロシクオネガイシマス。秋葉原が大好きなんです。僕はオタクなんですよ。日本のアニメも好きだし、秋葉原は天国ですよ。(※カタカナの部分は日本語で話してします)
ブラッグス 日本語が読めるなんてスゴいよ。私には出来ないからね。自慢の息子だよ。
ブラッグス 日本に行った時、全く違う文化で生まれ育った私を、みんなすんなり受け入れる心の広さを学んだよ。だから今の仕事でも頼まれたら何でも受け入れるように心掛けているよ。僕は野球が大好きで、野球に対する想いも強いけど、それと同じぐらいフィットネスも好きなんだ。僕が指導する生徒がトレーニングを重ね、引き締まった体を手に入れて、そして以前よりも自分に自信を持てるようになった姿を見ると、心から良かったと思えるよ。
―今後の目標
ブラッグス 今は新型コロナウイルスの影響でできることは限られてしまっているけど、その中で自分にできることを考え、新たな知識やスキルを身に付け、人脈を広げ、プラス思考で物事を取り組む。この経験を生かしてレベルアップしたいよ。
―日本のファンへメッセージ
ブラッグス 日本でプレーしたことは私にとって大切な思い出です。本当に楽しかったからね。いつかまた日本に行きたいと思います。
以上です。